Stchang’s Diary

すとちゃんが綴る、他愛ないほのぼの日常。

同郷

 同じ故郷出身の人というのは当然色々な場所に存在する。勿論ぼくにもいる。この街に引っ越してくるとき、同じように就職でぼくが住んでいる街の近場に引っ越した友人もいるし、先の記事「演劇教師」のところでも少し触れたけれど、自分の故郷出身の有名人も複数いる。

 

 同郷という言葉はなんだか不思議だ。全然知らない人でも、その人がぼくと同じ場所で生まれ育った、なんてエピソードを聞くと嘘みたいに親近感がわく。自分をなんて単純なやつなんだろうと思わないでもないけれど、どうやらそんな風に親近感がわく人はぼく以外にもいっぱいいるようだ。それが証拠に、都会の方では「県民会」なるものがあり、定期的な会合を開いて同郷出身者たちが交流を深めているらしい。

 

 何年か前、引っ越してきたばかりであまりに寂しかった時に上記の話を聞きつけて、インターネットで色々と探して見つけた、上記「県民会」的な団体が企画、主催したイベントに一人で参加したことがある。しかし、実はそれは「県民会」とは名ばかりで、起業家や起業家の卵ばかりを集めてお互いの意識の向上と人脈の形成を図る、いわゆる「猛烈に意識の高い人たちだけが参加するワークショップ」的なものだった。当然、ぼくのような学も才覚もない馬鹿者などちっともお呼びではない。

 

 そこで意識の高い人たちの「武勇伝」ばかりを聞いた結果、友人を作るどころか自分の孤独感が何倍にも増した。結局、そのイベントのあとに企画されていた、打ち上げを兼ねた飲み会の参加費まで事前に支払っていたのにもかかわらず、ぼくは早々に帰宅してしまった。飲み会部分の払い戻しのことについて気にならないでもなかった。なので、念のため事前に飲み会の費用も支払っている旨を受付の人に伝えてみたが、鼻で笑われた挙句に真顔で「どうぞお帰りください」と言われてしまった。そう言った人がとてつもなくガタイのいい男性だったこともあり、ひ弱な上に臆病で愚かなぼくはそのままさっさと帰宅してしまった。あれは非常に損をしたと今でも思う。

 

 以来、「県民会」と名のつくようなイベントにはめっきり足が向かなくなってしまった。自分に胡散臭いイベントと参加するべきイベントを見分けるだけの目があればいいのだけれど、残念ながらぼくはその点において非常に鈍い人なので、果たしてどのイベントがだめで、どのイベントが有意義かなんて今でも判別が全然つかないのだった。

 

 帰省の時期が来て、都合をつけて地元に帰れば当然、その場所にいる人々は故郷の人たちなので、方言も普段ぼくが聞き慣れている言葉が使われている。一方で、ぼくが今住んでいるこの街にも、この街の人が使う言葉がある。数年も住んでいれば使用されている言葉にも慣れてくるから、すでにこの街で聞く言葉に違和感は覚えなくなったし、ある程度なら自分で使えるようにもなった。逆に故郷に帰省した時に、地元の人たちが何気なく使う方言に対して、少しばかり違和感を覚えるようになっているくらい。これは何だか妙なことだなと思う。

 

 自分もいつか、この街の言葉を普段でも使うようになるのだろうか。言葉は個人のアイデンティティそのものだ、なんて有名な小説に書いてあるようなことを持ち出して、自分が街の言葉に染まることにはっきり抵抗する気もないけれど、ぼくは自分の故郷の言葉が好きなので、これからも意識して使用する言葉を変えるつもりはなかったりもする。

 

 いつの間にか、同郷の話から言葉の話に移動してしまった。キリがいいのでこの辺で止めておくことにする。

 

 もう直ぐ帰省の時期になる。