Stchang’s Diary

すとちゃんが綴る、他愛ないほのぼの日常。

年を経ること

 「高齢」を身近に感じる環境に、長らく身を置いている自覚がある。

 

 ぼく自身には全くもって学がないため、昨今の著しい高齢化社会をもっともらしい言葉を連ねて論じる、なんてことはできない。ただ身近で色んな状況を見ていて、自分なりに感じることがないわけでもないだけだ。

 

 ぼくは幼い頃からずっと、自分がいつかは必ず死ぬ、ということをどこかでずっと意識しながら生きていたように思う(この考え自体は『メメント・モリ』とも言われ、様々な芸術のテーマに用いられることも少なくないそうです。最近になって知りました)。

 今でも時々そうだが、いつか死ぬと言う事実を思い出して、それこそ動けなくなるくらいの恐怖と絶望を感じることがあり、そんな時は考えれば考えるほど酷くなるから、思考を停止してひたすら絶望が過ぎる瞬間を待つ。この前に電車の中でこの感覚に見舞われた時は、電車が次の駅へ向かって動いている間に過ぎてくれたから助かったと思った。

 当然のように小さな頃はうんと長く生きたいと思っていたし、正直な話、今でもできるだけ長く生きていたいと思っている。ただ、色々な状況を見ると、どうやら「長く生きていること」が、そのまま幸せに直結はしない、ということを実感するようになった。

 

 何を今更当たり前なことを、と思う方も多いだろう。残念ながらぼくは相当の馬鹿なので、自分の年が20を超えてやっと上記のことを実感するまで、誰に何を言われても「長寿」は「幸せ」と同義であると信じて疑わなかった。

 色んな経験などについては、また機会があれば書いてみたいと思っているのだけれど、たとえ短い生涯でも十分に幸せに過ごした人の存在は、確かにあるのだろうと思った。

 

 疲れている時に、壮大なテーマで記事を書くべきではなかったのかも。

 明日も早いし、もう寝よう。