Stchang’s Diary

すとちゃんが綴る、他愛ないほのぼの日常。

聴いた音楽①

 自分がよく聴いている音楽をブログで取り上げたりすると、書くネタとして成立するかな、と思ったので、本日からそのような試みを始めてみることにする。なお、個人的にひっそりやるので、これまでの記事でもやってはこなかったけれど、Twitterでの宣伝などはしないことにする。

 

 まず、最近はどちらかというと邦楽を良く聴いている。アニメソングから、最近知ったバンド、ボカロなど、意識してジャンルを決めないようにして、とりとめなく良いと思ったものをYouTubeから引っ張ってきて聴いている。

 ただ、洋楽も意識的に聴くようにはしているから聴いた数としては一定数ある。なのでこちらでは満遍なく紹介しようと思う。それでは、印象に残った順に以下に並べたい。

 

 ⑴Liam Gallagher 『Wall Of Glass』

 

   ⑵the cabs 『二月の兵隊』

 

 ⑶頭脳警察 『ふざけるんじゃねえよ』

 

 supercell 『君の知らない物語

 

 ⑸The Beatles 『I Am The Walrus』

 

 ⑹Nirvana 『Smells Like Teen Spirit

 

 ⑺Nirvana 『Polly』

 

 ⑻石風呂 『ゆるふわ樹海ガール』

 

 ⑼ハチ 『ワンダーランドと羊の歌』

 

 ⑽RADWIMPS 『なんでもないや』

 

 

 以上の10曲が最近、印象に残っている。

 

 まず、⑴のリアムは、以前からソロ活動に関するニュースを見ていたから、実は発表を心待ちにしていた。ぼくが曲を知ったのは本当につい最近で、この曲がYouTubeに投稿されてから一週間が経った後だったが、一聴して感嘆、やっぱり素晴らしいと思った。「Beady Eye」でも思ったことだが、今後がとても楽しみです。

 

 ⑵は、ぼくにはYouTubeで定期的に日本のインディーロックバンドを探す時期があり、たまたま先週その時期だった。その時に色々聞いている中で見つけた。編曲が素晴らしいし、雰囲気が繊細で危ない。見てはいかんものを見てしまった感覚と似ている。すごい。

 

 ⑶はもともと高校生の頃から好きなバンドだった。頭脳警察は知ってから今まで定期的に聴きたくなるバンドの一つ。中でもこの曲が好きです。

 

 ⑷も高校時代にその時の友達(作詞の時に書いた、DTMをやっていた友人です)から教えてもらった。「メルト」と同時期にこの曲を知り、すごい人がいるもんだなあと嘆息した覚えがある。

 

 ⑸、ぼくはビートルズが大好きです。最近「Magical Mystery Tour』を借りて、その中でもとりわけ聴いているのがこの曲。曲自体はアルバムを知る前からずっと好きだった。リアムがいたOasisもカバーしていたし、これ以外にも名曲ばかりのアルバムなので、機会があれば是非聴いてみてください。

 

 ⑹、⑺はニルヴァーナ。このバンドもぼくは高校の頃からずっと好きだった。⑹を初めて知ったのは、実は日本のバンド「B-DASH」のカバーヴァージョンだったのだが、それから原曲に飛んで、そのあまりの違いに「同じ曲か?」と疑問を覚えたほどだった。両方とも素晴らしいです。

 

 ⑺は⑹が収められている全世界でヒットしたアルバム「Nevermind』の収録曲。アコースティックな曲。おどろおどろしい雰囲気だけど、すごく惹かれる。

 

 ⑻は最近知りました。niconicoで見つけて、一度聴いて、純粋にポップで聴きやすく、すごくよかった。この方のバンド「コンテンポラリーな生活」の曲もいい曲です。

 

 ⑼は言わずと知れた米津玄師がボカロを中心にやっていた時の曲。素晴らしいです。ポップだし、世界観がいいです。すごく好きです。

 

 ⑽はこちらも言わずと知れた大ヒット映画「君の名は」の主題歌の一つ。歌詞もすごいし、曲もど真ん中でした。映画も含めて素晴らしいです。

 

 

 以上が最近聴いた曲で印象に残っているものである。今後も気が向いたらこういうことをやっていくかもしれないので、ひとまずカテゴリーとしてこの記事用のものを設けておこうと思う。読んでくれている方の、音楽を聴く上での参考にでもなれば御の字だけれど、ま、そんな風にはいかないかな、と思いつつ自己満足で書いた。

 

 また新しいものを探していくとしよう。

 

旅行

 実家にいた頃は年に一、二度は家族旅行に出ていた。ぼくの故郷の近隣にある県であったり、遠出して関東に行ったりと、なんだかんだでいろいろ行った。移動手段はほぼすべて父の運転する車だった。どれだけ距離が離れていても、移動のすべてを高速道路を使って車で行った。ぼくは決まって助手席に座っており、外を眺めながら延々と音楽を聴いていた。

 

 ふと気がつくと長いこと眠っていて、目が覚めると車が止まっている。「もうついたんかな」と起き出すと三度目くらいのパーキングエリアだった……、なんてこともよくある光景だった。それくらい離れている場所にも行った。そんな時は運転もしていないのに一丁前に疲れ果て、ホテルにつくとすぐに横たわる、なんてことになった。

 

 旅行に行ってたどり着く先は、当然だけれど自分の住んでいる場所とは土地が違うので、それなりに刺激もあったりする。例えば普段ぼくが使っているものと方言が違ったり、故郷にない建物や街並み、よく話題になるけれど車のマナーに対する感想など、切り取ると案外小さいものが目について、一喜一憂していたりして思わずはっとする。

 

 この街に引っ越してきたあとは、旅行に取って代わって帰省がその位置を占めた。ぼくが家を出たことで、家族旅行の実施自体が結構難しくなった。人並みに時間の流れと現在の状況にはたと気づいて寂しくなることは、やっぱりぼくにもあったりする。でも、この先も時間は流れるので、ひょっとすると、故郷を一生出る気のなかったぼくが縁あってこの街に来たように、後々に家族でまた旅行する機会が出てくる可能性も、ないとは言い切れないのだ。

 

 密かに、頭の片隅でそんなことを考えながら、今日がゆっくり終わっていく。

アニメ

 タイトルは大きく「アニメ」としたが、ぼくははっきり言ってアニメにはとても疎い方だと自覚している。アニメどころかそれに関連した媒体、漫画や動画などの文化すらも疎い方だと思う。こと最近のアニメに関する知識など、それこそ恥ずかしいくらいに浅い。それでも何とか目立ったところで引っ張り出してくるならば、今頃ようやっと「BanG Dream!」を見終え、「ラブライブ!サンシャイン!!」に取り掛かっているところで、その他に見たものも数えるくらいしかない。

 

 ぼくと交流してくださっている方々がTwitterで時々推しているアニメも、大変恥ずかしながら実はあまりわかっていない。例えば、「カゲプロ(カゲロウプロジェクト)」はniconicoに上がっている一連の動画作品を中心に見ているから、白状すると実はアニメ(メカクシティアクターズ)を見たことがないし、一連の曲は好きだけど、最近やっとあらかた聴き終えたくらいである。小説(カゲロウデイズ)だって先月くらいにようやく一巻を買って、半分くらいまで読み進めているところなのだった。

 

 また、「おまグン(お前はまだグンマを知らない)」に至ってはタイムラインで見るまでその存在すら危うかった。自分で調べてみて、面白そうだから漫画を買いたいと思っているけれど、まだ買えてすらいない。

 

 「カゲプロ」の繋がりで言うと、自分がボーカロイドを用いて曲を作るようになるまで、「ボーカロイド」の存在すらも実は危うかった。果たしてそれはコンサートなどを行っている「アイドル」なのか、はたまた自分で買える「商品」なのか、どっちなのかわからずに悩んでいたほどであった(※今はしっかりわかっています)。自分で作り出してから、はじめてきちんとボカロ楽曲を聴くようになったので、正直に言うと実は今のボカロのトレンドとされる楽曲や有名Pとされる方々をあまり詳しく理解していない節があり、大変申し訳なく思っている。これからどんどん視聴していくつもりである。

 

 ぼくが学生の頃、「niconico」がまだコンテンツの総称としても「ニコニコ動画」と呼ばれていた頃に好んで視聴していたのは「組曲『ニコニコ動画』」だったり(全部諳んじられるくらいに聴きこんでいました…)、「エアーマンが倒せない」だったり、「思い出はおっくせんまん!」だったりした。その頃の人たちはそれぞれ活動の形を変えたりして、現在もしっかり活動されているようである。時々その片鱗を見て、一人で勝手に温かい心持ちになっている。

 

 一方、ぼくのリアルの友人にはいわゆる「ガチオタ」と呼ばれている人たちがたくさんいる。その人たちは、それはもう「ガチ」なものだからぼくのような俄か者とはまるでレベルが違っていて、例えば冒頭に述べた「ラブライブ!サンシャイン!!」などは、現在も全国各地で精力的に行われているコンサートには何の躊躇なく仕事を休んで遠征。この作品の第一期がブームとなっていた頃など、アニメはBDを文字通り「全巻新品で」揃えた上で、映画館で何かの節目に行われる「全話スペシャル上映」にお金を払って3回程度は見に行くほどの気合の入れようである。

 

 当然劇場版なども複数回は当たり前、一番気合を入れていた友人など、なんと聞いて驚け、「13回」見ている。考えてもみてほしい。「映画館で」「大人料金で」「13回」である。言葉を並べてみるだけで、もはや暴力である。映画を見た分だけ特典としてステッカーなどがもらえるとはいえ、疎い方であるぼくからすれば、一体誰が誰に向けているのかわからないが紛れもない暴力に聞こえる。ただ、その次くらいに気合がすごい友人に、「ステッカーが二人分もらえて目当てのものに当たる確率が高くなるから」と言われ、かくいうぼくも「映画館で」「大人料金で」「5回」見ているから実は人のことをあんまり言える立場ではないのだけれど。

 

 本について書いた記事にも共通するけれど、それくらいにぼくの友人を熱中させている「アニメ」の存在の「強さ」とでも言うべきものを、最近、身にしみて感じる。確かに最近のものは、いやそれに限らずだけれど、ストーリーはしっかりしているし、絵は良いし、すごく面白いものがたくさんある。映画も面白いし、連続放映されているアニメも面白い。うん、何だか見たくなってきた。

 

 何かおすすめを友人に聞いてみようかな。

アイコン

 本日、ぼくの心の友である、絵師のミヤ(@crepe173)さんより、自分、つまり「すとちゃん」のアイコンを受領した。すでにTwitterを始め、ぼくが作品などを投稿、発信している各所において、その顔となるアイコンを変えられるだけミヤさん作成のものに変えさせていただいたので、興味のある方は…、いやあってもなくても、是非一度は見ていただきたい。

 

 これが、「すとちゃん」だ。ぼくが「すとちゃん」だ。本日を持って、そのように胸を張りながら活動ができることを大変誇らしく思う。

 

 このアイコンは、かねてよりぼくからミヤさんにお願いしていたものである。忙しい毎日を送っているにもかかわらず、ぼくの我儘でしかないこのお願いを二つ返事で快諾し、あまつさえとてもスピーディーに作成してくださったのは本当にかたじけない。出来上がったものをいただいたのはまさに今日の朝なのだが、あまりに素晴らしかったので冗談抜きにぱっちり目が覚めた。そして受け取った直後にツイートした通り、本日はいつもより快適に過ごせたように思っている。

 

 ぼくには全く絵心がない。昔から絵や漫画は大好きだったから、小学生の頃には模写なども人並みにはやっていたのだが、まるっきり上達せずに挫折してやめてしまった。ぼくのように曲を作って活動をしている人の中には、絵や動画まで自分一人で、しかも高クオリティのものをどんどん作り、アイコンから動画制作、投稿までを一人で完結してしまうとんでもない人たちもたくさんいる。そんな人たちにはその際立った才能と努力の結晶たる作品、ひいてはその人自身の活動に対して、純粋に尊敬の念を禁じえない。

 

 ぼくのように不器用極まる人間にとって、自分のアイコンを作っていただいたり、楽曲の動画を作っていただいたりするのはそれだけで信じられないくらい嬉しいし、偉大なことだし、何より本当にありがたいことなのだ。そんな凄いことを、いとも簡単にやって見せてくれるミヤさんである。本当に尊敬しており、敬意を表して「心の友」と表現させてもらっている。

 

 アイコンが心の友のおかげで素晴らしいものに新調され、創作意欲が俄然、湧いてきた。これからも曲をしっかり作って、発信して、聴いてもらいたいと思っている。

 

 頑張るぞ…!

コーヒー

 どうでもいいことだけれど、ぼくはコーヒーをよく飲む。ボトルタイプのブラックコーヒーだと1日2本は飲む。ブラックが好きである。いつからそうなったのだろう。前はどちらかというとブラックより砂糖とミルクが入っているものの方が好きだった。最近は、もうずっとブラックコーヒーばかりを飲んでいる。

 

 ぼくの友達に「紅茶はノンシュガー、コーヒーはブラック「しか」飲めない。両方とも、甘いものを飲む奴なんて気が知れない」とまで言い切っている人がいる。最初にその意見を聞いた時、その極端な発想に声を出して笑ってしまったが相手は大真面目だった。そこにははっきりと「甘いものは全く受け付けない」というニュアンスが含まれていたし、その友達は後日、実際にそのニュアンスと同様の発言もしていた。その厳然と甘党を淘汰する姿勢に、次第にぼくは腹が立ってきて一度彼と諍いになりかけた。その頃ぼくは、まだ甘い方が好きだったのだ。

 

 ぼくが好きな映画なんかを見ると、そこに出てくるコーヒーは大抵、ブラックだった(そんなことがない映画も、もちろんたくさんあります)。それに影響されたのかもしれない。ぼくは影響されやすいタイプの人間だった。今でも洋画を見終わった後、知らず知らず登場人物の真似をしながら帰路についており、道行く人に笑われる。そこだけ切り取られればコメディ映画である。見終えたのはアクション大作なのに。

 

 本や音楽にも、コーヒーは時に重要な位置付けで出てくることがある。そんな時は親近感とともに読んだり聞いたりしている。人知れず、コーヒーの中身はブラックだと想像している自分を発見して、試しにわざと甘いものに切り替えて考え直したりしている。甘いものに想像が切り替わった時、ほくそ笑んだりしている。自分がちょっと何を言っているのかわからなくなってきた。

 

 仕事に疲れたのかもしれない。一息つくために、ブラックコーヒーを一口。

作詞について

 昔、中学時代の頃はよく大学ノートに詩だけ書いていた。それこそ、今見せれば「ポエム」と揶揄されてもおかしくないような代物を書いていた。それも嬉々として。典型的な中二病だ。気持ち悪い学生だと今は思ってしまう。でも書いている時は本当に楽しかったし、実際に出来上がったものにも当時は満足していた。

 

 他方で、他の人が書いたものを読んだりはしなかった。前の記事で本や読書のことについて触れたけれど、ぼくが読むのは今も昔ももっぱら小説の類で、その時から詩は本当に読まなかった。教科書に載っている詩人、それこそ谷川俊太郎だったり、石垣りんだったり、茨木のり子だったりすると、数学の授業でも国語の教科書を引っ張り出して読みふけるくらいには国語の教科書が好きだったので、目に触れる機会もあった。その中でも石垣りんは素敵だと思った。個人的に『表札』がとてもよかったから、その詩が載っている、岩波から出ている詩集だけはこの街に出てきてから買って、今もちびちびと読んでいる。

 

 自分が曲を作るようになってから、「歌ものを作る時には歌詞が必要である」という至極当たり前のことに気づいて、最初は中学時代のポエムを引っ張り出してきた。高校卒業の頃である。一見して、恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にしながらも、ここにしか自分の詩のストックがなかったから覚悟を決めて、どうにか曲に合わせて改変して、やっと出来上がったものを弾き語りで親や妹に聴かせるなどしていた。

 

 最初はもう本当に散々なことを言われた。それこそ色々と耳に痛いことを言われていたのだが、その中でもとりわけよく言われていたのは、歌詞が「ひたすら長い」ということと、「何の内容も意味もない」ということだった。

 

 この感想(批判ですかね)のうち、「ひたすら長い」ことについては、正直な話、今も対して変わらないという自覚があるのでなんとも言い難い。長らく小説を書いていたので、詩にしろ他の文章にしろ、どちらかといえば長く書いている方が好きな人である。現にこの「Stchang's Diary」だって、動画などの宣伝時でもない限り文字ばかりをバカのように書き連ねている(写真の類に疎いせいもありますが)。もちろん、何にしろ書く時には読んでくださっている方にできるだけ楽しんでもらえるように書いているつもりではあるけれど、実際にはおそらく自己満足で終わっているのだろう。

 

 ただ、次の感想にある「何の内容も意味もない」ことについては、当時は反発しまくっていた。たとえどれほど「趣味の悪いポエム」だと揶揄されようとも、自分の歌詞に意味も内容もないなんてことはありえないと信じきっていた。何なら「高貴なる志に基づいて、非常に精巧な文体で極めて美しく、それでいて深遠なテーマ性を持ったもの目指して書いているのだ」と本気で思ってさえいた。今、その高貴なる志を恐れ多くも読み返すと、その時のぼくには大変申し訳ないがすべてを闇に葬り去りたい衝動に駆られるけれど。

 

 やがて自作曲が増え始めるとともに、ぼくが始めるよりずっと前にDTMをやっていた地元の友達がいて、その友達に頼まれて初めて「作詞」というものをやり始めた。その友達がいたく褒めてくれるものだから随分調子に乗った。当然ながら自作曲に合わせるポエムにも限りがあり、ぼちぼちストックがなくなってきていたことから、友達へ提供する流れで自分の曲にも新たに「作詞」をするようになったが、自分の曲に関してはその後も方々から批判されまくっていたので、この時点でどうやら自分の曲の方に問題があるのだと思い至った。

 

 友達はテクノミュージックを作っていて、現在はあまりDAWに触っていないようだが、本当に素晴らしい作曲家だった(今でもそう思っています)。その友達と比べるまでもなく、自分には曲作りの才能はないのだろうと思った。曲などのことについては、また別の機会に書いてみようと思うので詳細は割愛するけれど、その後も曲作りと作詞を批判されながらもぼちぼちとやり続けて、最近になってようやっと「まずまず作れるようになったな」と自分に納得し始めたところへ、現在、交流のある方々がぼくに声をかけてくれて今に至る。

 

 ポエムを書いている頃から今まで、自分の中で一貫して変わっていないのは「楽しい」という感想だった。何を言っても作詞という作業は楽しい。ポエムも楽しかったし、今も楽しい。変化といえば、大学ノートからiPhoneのメモ機能に執筆先が変わったことと、ポエムと比べて少しはましなものがかけるようになったことくらい。

 

 この先も作詞はずっとやっていきたい、と一人で勝手に思っている今日この頃である。

 

 

ギター

 ギターを始めたのは高校2年生の頃だった。友達のお母さんが弾き語っている人で、ぼくが普段から音楽をよく聴いていることを知って、「あなたも始めたら」と楽器屋に連れて行ってくれた。

 

 その時、そのお母さんに勧められてぼくが購入したのは、ネックが反りに反っていたアコースティックギターで、値段は5000円だった。とんでもない破格である。そもそも友達のお母さんが連れて行ってくださった場所も実はまっとうな楽器屋ではなく、楽器に限らず様々な中古品を取り扱っているお店だったのだけれど、たとえその時のぼくに「このギター、実はネックが反っているんだよ」と言ってくれた人がいたところで、果たしてぼくにはその言葉の意味が全く理解できなかっただろう。

 

 そんな風にして手に入れたギターは、その後も高校を卒業し、就職に失敗していろいろと奔走していた時期にも時々思い出したように弾いていた。生まれて初めて曲のようなものを作ったのもそのギターからだった。奔走していた時期に出会った同級生に、何かの機会でこのギターを見せた時、「こんな劣悪なギターで良く練習できているな」と言われるくらいにはひどいギターだった(らしいです)。今も実家の、ぼくの部屋に立てかけてあるので、帰省した時はそれが何かの儀式であるように弾いている。

 

 ギターはネックが反っていると弦が非常に抑え難い。アコースティックギターなんてただでさえ弦が硬いのに、それがとてつもなく反っていたから尚更である。結果、弾いている時には指の皮が尋常ではないくらいに硬くなったし、やがて友人の勧めでエレキギターを手に入れた時には、あまりの弾きやすさに大変な感動を覚えた。

 

 やがて就職が決まり、地元を離れて現在住んでいるこの街に引っ越してきたのをきっかけにして、心機一転、今度はちゃんとした大きな楽器屋でエレキギターを購入して、現在もそれを使っている。ちなみにそのギターの値段はおよそ3万円だった。Twitterでも少し話をしていただけたけれど、ぼくはバンドも組んでなく(今まで一度もありません)、今後もライブハウスなんかで演奏する予定もなければ、一人で弾き語りをするわけでもないので、自分としてはこれで十分だと思っている。

 

 ギターを弾いている時間が結構、落ち着く。忙しかったりしてしばらく弾いていなかったりすると、何かの拍子にパッと思い出して弾きたくなる。DAWを使用して曲を作るようになって久しいけれど、ギターで曲の骨格を作っていく方法は、やっぱりしっくりくる。ぼくの技術なんて冗談抜きで本当に酷いものだけれど、音楽はそもそもやっている人が楽しければなんでもいいのだと結論付けて、本日ものんびりギターを弾いている。

 

 そろそろ弦を変えようかな。